昭和五十七年五月七日 朝の御理解


御理解第九十二節
神は一体じゃによって、この方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげをうけたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。


 これは道のお取次に従わせてもらう取次者だけの事ではない。信心によって徳を受け、力を受けるということ。その力の頂ける手だてを私は信心の教えに基づかなければならない。
 ただ信心をすると云うて、ま、おかげを受けるとしても、それは徳には力にはならない。徳を受けるには、やはり、徳を受ける手だてをさしてもらわなければならない。また教えてもらわなければならない。またそれを実行する、行に表していかなければならない。
 今朝方、私は御夢を頂いておったんですけど、まあよう落語家が、お話をするような、いうならば八っつあんに、熊さんが住んでおるような長屋ではないけれども、長屋のような感じに、な、ところにま、それこそ善人善女ともうしましょうか。もうひとの良さそうな人ばかりのグループがあって、そこで今日はチョイとした酒盛りがある。それであのう、そこに、私が招待を受けておるというところでした。もう、皆見た顔もないですけれども、皆人の良さそうな、本当にまいうなら仏様のような人、神様のような人じゃと云うてもと教祖がおっしゃる。ま、そういう人達。
 いうなら善人の集いといったような、で、私と孫の恵城と久富繁雄さんと三人で行ってるんです。で、私が参りましたから、さあどうぞ先生と云うて、もうそれが小さい、十人もこ、お膳が並んどったら、もうその部屋がいっぱいになるといったような感じのお膳がこうしてある。
 恵城がツーッと一番正座に座った。私は一番したのところに、私はもう、ここでいい。いいえ先生上の方へと、こういうけれども、上と下に、孫が上に座っとるけん、私が下。繁雄さんな、その横にこう座って下さいと、いうわけで、そのお膳に着かせて頂いたら、あの、御ごちそうというて、別にこう御ごちそうらしいおごちそうはないけれども、お刺身皿にどのお膳にもいっぱいあの、生うにがついであるというのであった。
 どういうことか私、分かりません。ちょっとどんなことか見当もつきませんでしたけれどもね、まあ巷では様々なグループがございます。やっぱり類は類をもって集まるで、ま良い人は良い人達。
 それこそここに、聞いておりましたら、皆信心深い人で、何かその日は御地蔵さんこうとか、何とかいったような事、まあ月に一辺か年に何回か、その人達が皆集まって酒盛りをする、楽しく過ごすというような、ま、会合らしいんです。 それがそのウニから感じたんですけれども、ウニというのは皆さんがご承知のように、こ、栗のように、こうイガイガがいっぱいある、けれども中には、まそれこそ山海の珍味といわれるような味わいのあるウニ、いわゆるが、味の物が中に入っておるというわけですが、この人達は常日頃は、ジガジガするようないうならば、難儀をいっぱい持った人達ばっかりだなあと。今日という今日は、ま、何かしらの金を出し合って、今日一日はま、楽しゅう過ごそうというその、何ともいえん、味わいのある会合であるという風な感じでございました。
 支那の古いことわざに、「人間万事塞翁が馬」でしたかね、という言葉があります。それはある、ま、人が大変馬をかわいがっておった。立派な馬であった。ところがある日、その馬が逃げ出していなくなってしまった。大変それを悲しんでおった。ところがある日、その馬が今度は雌馬を連れて帰って来たというのであるね、だから一匹の馬が二匹になったと云うて喜んで息子がその雌馬に乗ったら、馬から落ちて怪我をしたというのであるね。ところが隣の国と戦争が始まったという、それで子供が怪我をしとったおかげで戦争にいかんで命拾いをしたという意味らしいですね。人間万事塞翁が馬。
 塞翁という人が持っておったその馬ね、悪いことばかりではない。その悪いことと思うておったことが良いことになり、良いことと思うておった事がまた悪いことになり、あざなえる縄のようなものだという風な、表現の時に使う言葉らしいんです。ね。
 人間万事ね、馬が逃げ出したと云うて悲しんでおったらね、その馬が今度は一匹の雌馬を連れて来た。はあ、これはかえって、おかげじゃったとまあ、いうなら、いって喜んでおったらその馬に乗って子供が怪我をした。また悲しいことになったね。悲しいことになったと思うたところへ、戦争が始まって怪我をしとったおかげで兵隊にもとられずに済んだというわけなんです。
 もこれはあざなえる縄のようなもの。それが人生だという風な表現なんでしょうね、そういうひとつのま、理があるわけでしょうけれども、私共信心させて頂いて今日の御理解でいうならば、守り守りの力とおっしゃるように、なら、同じこうして、御道の信心さして頂いておっても、その人の信心いかんによって、その力が違うんです。
 だから、その力を頂く為の手だてを合楽では習うておるのです。ね。決して人間ちは、悪かこつばかりはなか。またいつか良かこつもあろうというような、考え方から、私は善人が善人という人はそういう考え方の人だと思うですね。
 ところが教祖がおっしゃるように、あの人は仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと云うてもね、次々難儀な事が起こってくると、世間ではどうしたことであろうか、というような事があろうがと、信心して、おかげを受けるのは別物じゃと、信心して徳を受けていったら、また別じゃという風にも頂けるわけなんです。
 私は今日の御理解から、守り守りの力でとおっしゃるから、各々の力というものの相違によってです、ね、いわゆる幸、不幸があるんだと、世間一般ではです、まあそういう私が夢の中に今日、感じたように、本当に良い人ばっかり。その人達がま、日々は、金銭の事で様々な人間関係、様々な難儀の中にある人だけれども、ね、その善人ばっかりが集まって、たまたまこうした楽をする。楽しませてもらうというような、いわば繰り返しであってはね、そのなら、善人がま、言うなら、真の信心を分からしてもらい、天地の道理に基づく生き方をして、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と伝わって行くような信心を、お互い身につける手だてを本気で考えなければいけないね。これは、もう世間一般の通例。
 いわゆる、今の支那のことわざじゃないですけれども、ね、人間とかく、そういうあざなえる縄のようなもんだ。難儀というなら、幸福とがいつもこうある、あざなえる縄のようなもんだと言うのではなくてね、それこそ祝いめでたの若松様よ、枝も栄える葉も繁るという、親の代より子の代と伝わって行く信心のいわば、基礎というか、元というか、また力というか、お徳というかね、その頂ける手だてをね、頂く理というのは、も、天地の道理に従う生き方以外にはないと思うです。いわゆる人間万事うんぬんというこれも、ひとつの理なんです。栄枯盛衰は世のならい。これも理なんです。
 けれども今日、私が皆さんに分かっていただきたいのは、天地の道理なんです、なんのために夢の中に恵城がでてきたり、繁雄さんが出てきなさっただろうかということも、ま、考えてみたですけれど、分かりませんけれども、ま、この恵城の場合はま、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代というなら、人からま、大切にしてもらえれる、そういう意味の事をちょっと感じたんですけれど、繁雄さんの場合は、いつか繁雄さんがそういう意味の事をいっとられたんですけれども、本当にもし、私に信心がなかったらという意味の事をいわれた事があるんです。
 なら、久富繁雄一家の人達が、もし信心がなかったら、それこそ世間では、仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと、まあとにかく、繁雄さん葉良い人だ、おとなしい人だとま、例えばいわれるような人であっても、もし信心がなかったら、どういう事になっとっただろうと、ま繁雄さんはある時、ふと思われたんです。いつも思われとるのでしょう。それが今日の信心であり、なら今日のま、御用の心の根本には、そういうものがある。
 私にもし信心がなかったらね、どういうようになっとっただろうかと、久富一家というものは、どういう風になっとっただろうかと、信心のおかげでなら、今日のま、久富繁雄一家があるんだと思うたら、有り難い。ならそこに一心の御用もさせてもらわずにおれないね、そういう生き方が、力とも徳ともなって、子に孫に伝わって行く手だてというものをね、私繁雄さんがそこに使われて、夢の中に使われておられるのは、そういう風に思うたんです。ね。
 30年になられましょう。なら、あの時分に信心がなかったらね、ま、いうなら世間、いうならば、人の良いのと悪いのとでは信心しておかげを受けるのとは別物だということであったり、まあ、人間とか、塞翁が馬的な、確かに繁雄さんは大変体格がようあんなさったすそうですから、甲種合格で当時の二年間の兵隊勤めもなさっておられるのです。
 ところが戦争が始まってから、今、もう、肩が大変小さくなっておられますが、病気の為に、おかげで召集を受けられなかったんです。それこそ人間万事塞翁が馬のような感じですよね。これはまだ、信心のない時です。
 だから何がおかげになるやら分からんけれども、それがなら、あざなえる縄のように、次には悲しいことが起こってくる。また次にはいいことがあるというような事ではつまらんでしょう。折角、信心を頂くのですから、いわゆる、ここでは守り守りの力と云うておられるのが、守り守りの力でその教会のひれいが違うのですから、各々の信心いかんによって、その力が頂ける信心をひとつ頂かなければいけない。
 世間一般でいう、いうなら、栄枯盛衰は世の習いだという、そういうひとつの理もあるんですんね。人間万事塞翁が馬といったような理があるんです。けれども信心させていただいておかげを受けるということはべつなんです。
 これは何故、別かというと、天地の道理に従うた、天地の理に基づく、いうならば、天地日月の心をしんとするような信心。その生き方がいうならば、徳を受ける事になり、力を受けることになるのです。
 ですから、今の難儀とか困ったとか、いうことは全部力を頂く元なんだからね、最近頂きますように、これはいよいよ豊かに大きな心にならせて頂きますように、これはいよいよ豊かに大きな心にならせて頂く為の特効薬なんだからという、ひとつの思いこみを持ってです、そこには不平もない、不足もない。天地の大恩に感謝し、もって日々の生活をさして頂くという生活が身に付かなければ、難儀だから参っておる、苦しいからお伺いをしなきゃならんから、日参しておるという日参から、いよいよ、天地の道理に基づく、それをなら、合楽では御理念に基づくところの生き方ね。
 そこからは、いうなら、普通でいう、理ではない、そのところをま。どういう風に申しましょうか、道徳的もなからなければ、常識的でもないね、いうならばある意味でいうと道徳を無視したようなね、なら、義理人情というような事が大変、今日私が御夢の中に、頂いた、そのグループは、ま、義理人情に熱い、難儀な人達という感じなんです。
 けれども、義理人情が熱かったからと云うて、幸福になるのじゃない。親切が強かったからというだけではでけん。ね。仏様のような人じゃだけではいわば、あざなえる縄のような生き方しかできない。ね、
 そこに越えたもの、道理を越えたものね、常識を越えたもの、それを私は超道理とか、超道徳とかという風に申します。ね。だから、人情、いうなら、義理人情で、いかにもそれはま、何ともいえん雰囲気は生まれてくるようにあるけれども、雰囲気は良いでしょう。
 今日私は招待を受けたグループの雰囲気は素晴らしい雰囲気です。けれども、そこから抜けることはできないというのですね。為には私共がこえたね、いうなら、超道徳であり、超真理、義理人情ということになるのじゃないでしょうか。 いうなら、それを一口でいうと、心行一筋に生きるという生き方なんですね。それをなら、御理念によってね、その気になれば誰でも頂けるように教えられるのですから、守り守りの力、信心させて頂く者の一人一人の力によって、それの比礼が違うてくる。
 今日は久富繁雄さんの御夢の中に現れてきたその、久富繁雄さんを見て、もし信心がなかったら、人間万事塞翁が馬ということで終わってしまわれる方ではなかろうかと思うです。
 そこに一家中があげて、というような、信心にならしてもろうてね、久富の家に力を受け、徳を受けてね、いうならば、これから願わくば、いうならば、親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と、その信心が継承されていくような、いよいよ徳を受けて残しておかなければいけないと思うですね。    どうぞ